コールマンのイージーリフトチェア

tag20052005-06-08

買いました。アウトドア用の折り畳みイスで、
背もたれの動きと連動してフットレスト
自動的に出てくるし、収納される優れもの。
これを近所の公園や川沿いの緑地に持ち込んで、
マターリしようという算段。
しかし、高井戸オリンピックで支払いを済ませ、
肩にかついで自転車に乗ったとたん、その野望?は
はかなく潰えました。重い……orz
これじゃ車がないと、とても遠くまで運べませんわ。
あきらめて、うちのベランダに置くことにしました。


で、置いてみると、うーんなかなかグッド!
心地よい風を受けながら、ハンモックのような
寝心地を味わえます。ちょっとしたアウトドア気分。
これからは、やたらベランダへ出て涼む、
あやしいオジサンになりそうな気がしますw



[うるさいぞ、自分。]
最近の歌って、やたら「自分」という言葉が多い。
「自分を超える」とか「自分に言えない」とか「自分の影が……」云々。
うるさいぞ、自分!(^^;)
まあ日常的な言い回しでも「自分へのごほうび」とか「自分をほめてあげたい」とか、
とにかくやたら多いですね、自分。
衣食足りてなに不自由ない時代ともなると、もう自分くらいしか
興味がなくなるんでしょうか?w


おかげで、ワタシの大好きな歌謡曲というジャンルは、
ますます衰退していくわけですね。
謡曲って、大体が恋の歌。他人に向かってモーションかける
わけですから、「自分」なんて言葉、ほとんど出てきません。


そういえば、先日某紙のインタビューで山田詠美
「純文学はベクトルが自分に、大衆文学はそれが外に向かうもの」と
語っておりましたが、その意味では歌も純文学の時代?なんでしょうかね。
あ~、つまらん。
「あなた恋しい北の宿」とか「あなたとふたり幸せよ」とかの
コテコテの恋の歌を聴ける日は、もう来ないのでせうか……。



[歌謡曲といえば]
最近の歌って、あとで思い出そうとしても印象的なフレーズが
浮かんでこない歌ばかりですね。
とくにラップ系の歌なんて、あと何年かたつと、
歌詞なんか全然思い出せないんでは?
つまり、メロディ優先というか、言葉が貧しいというか。
これは作り手がもともと作曲先行で、言葉は付け足し(?)の
人だからでしょうね。


謡曲の時代、つまり専業の作詞家を必要としていた頃は、
詞が生きていました。たとえば
「北へ帰る人の群れはだれも無口で 海鳴りだけを聞いている」
「折れたタバコの吸い殻で あなたの嘘がわかるのよ」
「誰かに盗られるくらいなら あなたを殺していいですか」
……とまあ、ちょっと思い出してみただけでも、
ドラマや情景がくっきりと浮かんできます。


その点、いまや言葉なんかどうでもいい時代なんでしょうね、
受けとる側にとっても。
「自分」を語る歌がやたら多いのも、これと関係ありそうです。
昭和歌謡の時代が戻るはずはないけれども、
その時代の世相や気分を表した「詞」がないのは、
なんかとても淋しい気がします。


「言葉、カムバ〜〜〜〜ック!」


と言ってみるテストw