主語と受動態

きょうの新聞に、大江健三郎の「なぜ主語が隠されたのか」と
いうコラムが。
沖縄の集団自決について、日本軍の命令がなかったという
文科省の通達を受けて、書き直された教科書の文章が並んでいる。
それが見事に、すべて主語のない受動態の文章である――と
いうのだ。たとえば
《追いつめられて「集団自決」した人や……》
《なかには集団自決に追い込まれた人々もいた》てな具合。


大江は言う。
文章から主語を隠す、そして受け身の文章にしてツジツマを
合わすことで、文章の意味(とくにそれが明らかにする責任)を
あいまいにする……それが時には意識的にやられる確信犯の
ゴマカシであると。


さすがノーベル文学賞、見破られたか……と
思わず赤面してしまった。ワタシも便利なので
この手(主語ぬき・受動態)は、仕事でひんぱんに使うからだ。
「近年、○○業界では××な商品開発が求められている」とか。
だから、冒頭にこの手の文章が来ていたら、あまり信用しない
ほうがいい(^^;)。


ところで、このコラムでもう1つ気になることがあった。
《「集団自決」においこまれたり、日本軍がスパイ容疑で
虐殺した一般住民もあった》(東京書籍)という文例で、
最後の「あった」に違和感がありまくり。
これを「いた」と書いちゃうと生々しくなるし、「あった」と
することで、人間そのものより、出来事のほうへ読者の視線を
そらせたいんだろうな。ていうか、そもそも住民を
人間扱いしてないような印象が不愉快だが。
……ともあれ、教科書を書く人も大変だなあとは思う。
彼らもけっこう「追い込まれたり」してんだろうなあ(^^;)