悪役

「『七人の侍』と現代」(四方田犬彦岩波新書)を読んだ。
いまなお第三世界や紛争地域では人気のある、
アクチュアルな意義を持った映画である、という指摘が面白い。
気になったのは、侍たちに比べて「敵の描き方が皆無」という指摘だ。
確かに、あの映画に登場する野武士たちは、人格のある存在として
ほとんど描かれてない。エイリアンかジョーズみたいなものだ。


そこで唐突に思い出すのは、1975年秋のキネマ旬報である。その号は、「ジョーズ」「七人の侍」(リバイバル上映)の二大特集を組んだ、
読み応えたっぷりの内容だった。偶然とはいえ、この2作は、
物語の構造が酷似しているではないか。主人公たちが、
得体のしれない強大な敵と戦う、シンプルなストーリーという意味で。
確かに、野武士もサメと同格にされたのでは気の毒といわざるを得ない(^^;)。


しかし、そんなことを映画の作られた1950年代の日本、および黒澤明
求めるのは筋違いであり、ないものねだりというべきではないか? 
当時の西部劇は、当たり前のようにインディアンを悪として
描いていたし、勧善懲悪の時代劇が全盛の時代である。
そんな多面的な視点など、持ちようがない状況だった。


確かにいま「七人の侍」をリメイクすれば、敵側も詳しく描くという
ことになるだろう。勧善懲悪、正義と悪の対決などという単純な図式は
いまや通用せず、誰が敵で誰が味方か分からない、混沌としたテロの
時代であるからだ。


もっとも、そんな風にリメイクしたとして、それが面白い映画になるか
どうかは、また別な話である。敵役を詳しく描くと、主人公の侍たちの
魅力が相殺されてしまうことも考えられる。この映画は、シンプルな
構造だからこそ傑作となったし、いまも高く評価されているのだと思う。


それにしても、この本は「野伏せり」を「野伏せ」と表記しているのを
始め、誤字誤用、事実誤認などミスが多い。そもそも担当編集者は
七人の侍」を見ているのかさえ、疑ってしまった。
岩波書店といえども、モノを知らない若い人が増えて
いるのだろうか(……もっとも、こっちもあんまり文句はいえない。
図書館で借りた本なのでw)。